本研究は、米国センサスにおいて連邦からの指示がないなかでのマイノリティへの調査の実態と「変則」に対するまなざしを各州の調査員が記入した膨大な手書きの調査票を史料として総合的な歴史像を描くことを目的としている。今年度も時代区分を限定して研究を進めることはせず、時代横断的に調査票やその他史料を収集・検証した。 そのうち、中国人に対する初のセンサスでの記録が行われた1850年連邦センサスの調査票から分かったことは、「チャイニーズ」の「肌の色」の記録はほぼ全てが「ホワイト」を示す空欄であったという事実である。しかし同時に「チャイナマン」が名前欄にかかれるなど名前の省略も広範にみられ、既に「チャイニーズ」が「ヨーロッパ人とその末裔」である「ホワイト」とは異なる存在になっていたことが分かる。彼らは「黒人以外」すべてを包含する曖昧さをあらわしていたホワイトネスの境界内に位置づけられたとはいえ、十分かつ正確な記録が行われなくても良いという差別的な眼差し・行為の対象―マイノリティ化―していたことをローカルからの発信であるセンサス調査票は物語っているのである。次に、1852年のカリフォルニア州センサスでの調査実態をみると中国人の「肌の色」欄には「ホワイト」「チャイニーズ」をはじめとして「空欄」「モンゴリアン」まで様々な形の記入がみられた。1850年からわずか2年で「ホワイト」の記載が減少し、「チャイニーズ」との記載がセンサス上ではじめて現れたのだった。 これらの中国人に関する事例を、マイノリティ、とりわけ1790年以降の「自由黒人」に対する調査の杜撰さという長期かつ全国的な文脈に位置づけたのが、従来の単一集団を対象とする研究とは異なる点であり、連邦の「包括的人種政策」は、「街角の官吏」であるローカルのセンサス調査員が中国人移民を他者化(人種化)していく過程に基礎を置いていたことを明らかにした。
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