帝国東部には古代ギリシア以来、都市文化の伝統があり、多くの都市の存在が確認される上に、民会も決議を出すなど盛んな活動が認められた。一方、西部ではそもそも都市が少なく、属州総督などの帝国官僚が各地で都市の建設や自治のシステム作りを促すなど行政サイドが都市の形成を進めた。 このような東西の差異を踏まえた上で、西部に着目すると、今日知られる各地の都市法には民会選挙に関する条文はあっても、民会決議に関する条文は一切認められない。確かに、すべての都市法が伝わっているわけではないが、既知の都市法に民会決議への言及が皆無である事実は重視されるべきである。 では、西部では、市民が都市の行財政などに関与できなかったのであろうか。碑文の中には「民衆の求めにより」「民衆の勧めにより」などの定型句が多々認められ、これらの表現に続いて碑文は、都市が何らかの動きをしたこと、個人が都市に建造物や見世物を提供したことを伝える。 つまり、帝国西部には民会決議という制度が認められず、市民の政治参加が保証されていなかったのであるが、多くの市民が声を一つにするという示威活動を展開し、都市名望家もこの声を無視することはできなかったと思われる。民会決議はなくとも、それに代わる動きはあったのである。
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