主に集成する資料は大壁建物と呼ばれる朝鮮半島由来の遺構である。これは溝のなかに柱穴が存在する掘立柱建物であるが、近畿地域や西日本では古墳時代に多く確認されるものである。東国では溝もち掘立柱建物と呼ばれるものが存在し、それが、奈良時代や平安時代に確認されるようになる。昨年度までの研究で東北および関東地域について、おおむね集成作業を終えていたが、今年度についても主に群馬県域の事例を調べて追加することができた。 その結果、宮城県から長野県・静岡県までで、合計245例の溝もち掘立柱建物を集成することができた。溝もち掘立柱建物は溝と柱穴の関係から、全周溝もち掘立柱建物、列状溝もち掘立柱建物、柱間溝もち掘立柱建物の3種に分けることができ、全周は45例、列状は43例、柱間は164例となった。 これらの所在する場所と遺跡の性格をまとめると、確認された遺跡が国衙、郡衙、郷家、寺院あるいはその周辺集落と理解されているものが多いのである。神奈川県域ではその多さゆえ一般的な集落も含まれそうだが、東国全体では官衙関連、寺院関連およびその周辺として理解できるだろう。この他、L字竈の住居、さらには移動式竈についても集成したが、L字竈については溝もち掘立柱建物と同様の傾向を示している。 ただし、これらの遺構に伴う遺物としての物質資料については、ことさら渡来系の要素はない。渡来後3世以降の人びとであった可能性を考えたが、このことは、奈良時代から平安時代にかけて、古墳時代に渡来してきた人々が、改めて東国に移動してきたことを示しているのではなかろうか。これらの遺構は、古墳時代にはなかった国や郡などの役所や寺院の造営や維持管理にあたり、渡来人が招聘されていたことを示していると考えられるのである。
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