研究課題/領域番号 |
26370908
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研究機関 | 別府大学 |
研究代表者 |
田中 裕介 別府大学, 文学部, 教授 (30633987)
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研究期間 (年度) |
2014-04-01 – 2017-03-31
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キーワード | 江戸時代の外来系墓地 / キリシタン墓地 / 唐人墓地 / 長崎悟真寺 / オランダ人墓地 |
研究実績の概要 |
キリシタン墓地については大分県豊後大野市岡ナマコ墓墓地の実測調査を完了し、その報告を別府大学『史学論叢』に発表した。同県臼杵市野津の神野家墓地の調査に着手した。1640~50年代の墓地である可能性が高まり、墓碑の実測調査を27年度に継続する。豊後大野市栗が畑墓地の調査は、栗が畑地区の全体像を歴史的に復元するためまず墓地の所有者である甲斐家の屋敷の史料調査と背後の山頂にある山城の縄張り図調査を先行し、墓碑の調査は次年度のすることにした 当初予定していなかったが臼杵市野津町の下藤キリシタン墓地の所在する旧下藤村の慶長検地帳の復元によって下藤村の1579年以後の教会と墓地、フロイスの記録に表れるリアンの屋敷の位置等が推定できるように大分県立先哲史料館の調査で判明し、周辺地域の地籍図復元調査を担当した。この結果下藤墓地のキリシタン墓地開設年代が1579と判明し、キリシタン墓地における墓上施設である石組遺構が1579年にすでに存在することが判明した。また千々和ミゲル墓の調査に協力し、重要な年代資料をえることができた。 長崎の唐人墓地については長崎市深掘菩提寺墓地の実測調査を実施し、報告に向けて図面の整理とトレースを行った。長崎市悟真寺唐人墓地は主要な墓碑の実測調査と、17~19世紀の墓地の計測観察悉皆調査に移行したため、完了しなかった。平行して実測図のトレースを実施した。その結果17世紀の墓碑については詳細な型式編年が可能となる見通しをえた。調査による派生した問題として墓碑の石材加工の技術に中国福建の技術が用いられている可能性が浮上し、長崎悟真寺崇福寺で調査をおこなった。長崎の唐人墓と比較するために、17世紀に唐人が居住した宮崎県飫肥、都城市の墓地を調査した。墓碑としては全く日本の型式であった。 近世後半のオランダ人墓などの墓制調査は、ほとんど取りかかれず、次年度に行うことにした。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
当初予定していた調査は順調に進んでいる地区とそうでない場所があり、年度内に達成できなかった場合が多いが、その多くは調査途中で新たな課題(悟真寺唐人墓の悉皆調査)が生じたり、新たな調査の必要(宮崎県の唐人墓、下藤キリシタン墓地)を優先したためで、全体としてみると調査は伸展していると考える。 唐人墓碑については17世紀から19世紀の墓碑の形態変化について詳しい見通しをえた。また17世紀の唐人墓地の制作に福建省の石工が関わっていることを石材加工技術の一つである矢穴技法の特徴から追求できることが判明た。また17世紀末日本に伝わった中国風の墓碑型式が日本に影響を与えている特徴が判明した。 キリスト教墓地についても石製墓地以前の墓上施設である石組遺構が豊後では1579年までさかのぼることが判明し、キリシタン時代の墓制に外来的要素がどのように影響をあたえるか手がかりが見つかった。
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今後の研究の推進方策 |
キリシタン墓地については墓地の構成要素についてどの特徴が日本伝統的で、どの特徴が外来的な要素であるかという仕分け、外来形に仕分けられた要素はアジアに成立したものか、ヨーロッパに由来するものかかという観点から整理してまとめていきたい。 唐人墓地についても日本国内の墓制からどのような影響を、どのような年代変化をともなって受けていくのかという観点で整理する。 近世後半の外人墓地については、同様の観点から調査を行うが、全体を通して、江戸時代の日本国が外国人をどのように扱ったのか、墓制なかでも墓碑という考古資料を使ってまとめていく。 そのために墓碑の実測調査を重視する点に変化はないが、大分県内のキリシタン墓地の調査と墓碑編年作成を最優先課題とし、悟真寺を中心とした長崎の唐人墓の編年を重視し、外国人墓地については最終年度前半に行いたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
銀行振り込み手続きを、同一人には一括して行うようにしたため、当初予定した振込手数料が下回った。
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次年度使用額の使用計画 |
予定している調査を円滑に行うために旅費あるいは人件費に充てたい。
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