本年度は南洋群島の中心地の成立と展開から見た地域形成に関する研究,および地域形成を支えた移民に関する研究を行った。 前者に関しては,南洋群島を島嶼型植民地として位置づけ,公共施設(行政的機能)と会社本社(経済的機能)という2種類の近代的施設の立地を分析することで、空間の組織化=実質地域化を明らかにするものである。 南洋群島の中心地は、日本が統治を開始した直後(1915年)の7地区から統治の末期(1943年)には54地区へと増加した。また、統治開始直後には低次な中心地が並列するだけであったが、その後中心地間の格差が広がり、統治の最終段階では高次から低次まで6階層に分化するまでになった。南洋群島の中心地の形成と階層分化を起こすメカニズムとして、外地統治機関の配置が重要である。軍政時代から群島内は6つに区分され、支庁所在地には各種公共施設が配置され、支庁内の中心地機能が付与された。その中でもガラパン町とコロール町が1920年代から成長する。ガラパン町が経済的機能卓越中心地、コロール町が行政的機能卓越中心地としての性格を有し、両町は群島内の二元的構造をなしていた。しかし、1930年代後半になると戦時統制経済の時代となり、コロール町には会社本社の集積が進み、群島内最大の行政的機能と経済的機能を兼ね備えた高次中心地へと成長した。行政的機能が経済的機能を引き付けていることがわかった。 後者については,奄美大島宇検村、沖縄県八重瀬町からの移民について調査した。宇検村からの南洋群島への移民の職業は,役場が所蔵する「引揚者在外事実調査票」を分析した結果,居住地はテニアン島とポナペ島に,職業は農業と漁業にそれぞれ限定され,いづれにしても南洋興発とその関連企業に関係していたことがわかった。漁業は出身集落での生業との継続性が認められた。 以上の研究成果は,学術雑誌や村史に掲載され,公表した。
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