これまで貿易商社の兼松を題材に、賃金構造やキャリアパスの学歴格差は希薄であった状況を明らかにした。その研究成果を踏まえて、今回の課題では全産業に視野を広げて貿易商社の特性を分析した。具体的には昭和5年の文部省の報告書のほか、兼松や三井物産を分析した結果、貿易商社では従業員の人数に占める学卒者(高等教育修了者)の比率が著しく高く、従業員の半分以上を学卒者が占めていることが判明した。他の業種では学卒者の比率は1~2割にすぎず、多数の学卒者の雇用は貿易商社の特徴であった。従業員の構成を伝える企業側の資料は少ないが、官立高等商業学校では多数の卒業生が貿易商社に就職したことが確認され、大正中期の神戸高商では約6割に達する。貿易商社と高等教育の強い結びつきは他の貿易商社にも広く見られると考えられる。 賃金やキャリアパスの学歴格差が希薄な一方で、学卒者を多数雇用するという一見して矛盾する現象は、どのように解釈すべきだろうか。通常、学卒者の利点には専門知識や学校生活で培った人的ネットワークが挙げられるが、本課題では規範意識に着目した。具体的に、それを数値で提示すべく明治36(1903)年~昭和23(1948)年の三井物産の「社報」に掲載された従業員の懲罰辞令を分析したところ、横領や重大な規則違背で解雇に至った不祥事17件のうち、学卒者は3件4名にすぎず、圧倒的大部分は中初等教育修了者であった。それぞれの母集団の人数を考慮しても不祥事の発生頻度には明確に学歴格差が存在し、それは三井物産だけではなく他の貿易商社に共通した。兼松では不祥事を起こした従業員は全員が中初等教育修了者、古河商事は中初等教育修了者による「大連事件」(先物取引による大損失)で経営破綻しており、逆に言えば、そうした規範意識の涵養が高等教育の意義であったのではないかという見通しを得た。
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