研究課題/領域番号 |
26380445
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研究機関 | 京都産業大学 |
研究代表者 |
玉木 俊明 京都産業大学, 経済学部, 教授 (10288590)
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研究期間 (年度) |
2014-04-01 – 2018-03-31
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キーワード | ハンブルク / 北海 / バルト海 / 大西洋 / ドイツ / 後背地 / イギリス / 植民地物産 |
研究実績の概要 |
平成26年度は、国際学会発表が1回あり、日本語による単著を1冊出版し、英語による共同の編著を1冊上梓し、日本語の研究ノートを1本、英語の論文を1本(それはベトナム語にも翻訳された)書いた年度であった。 国際学会の発表では、ハンブルクは、近世のヨーロッパで長く中立を維持した都市であったことを強調した。そして、フランス革命の際にアムステルダムがフランス軍によって占領されたため台頭したハンブルクであったが、ナポレオン戦争によってナポレオン軍にドイツが占領されたため機能が低下したことを述べた。さらにその後、中南米からの砂糖の輸入を中心として蘇ったと結論づけた。 日本語の単著には、そのことも含められている。さらに、アメリカが中立政策を利用して18世紀末に大西洋貿易を増やし、ハンブルクと争った側面があったことを強調した。もしアメリカの海運業の台頭がなかったとすれば、ハンブルクはもっと発展した可能性もあったように思われた。ただし、ハンブルクのアメリカ大陸との貿易は、中南米を中心とするものなので、アメリカ合衆国と正面から対抗関係にあったわけではないことも事実である。 ウォーラーステインは、国際分業体制による支配=従属関係を強調するあまり、輸送コストの上下により、商品価格が大きく変動するという事実に目を向けていない。このような視点に対し、私は単著で、海から見た近代世界システムの重要性をといた。ハンブルクはまた、海からみた近代世界システムという観点からは、きわめて重要な都市であった。多くの商品がここを通り、ヨーロッパ大陸に流入した。そして、イギリスのヨーロッパ大陸最大の取引地域であった。つまりハンブルクは、イギリスとヨーロッパ大陸の対外的拡張に、大きく結びついていたのである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
ハンブルクがイギリスとヨーロッパを結びつける貿易都市であったことが、徐々に明らかになってきたからである。 18世紀のイギリスは帝国を発展させ、その中心としてロンドンがあった。その経済システムは、より政治的なものであった。それに対しヨーロッパ大陸では、商人のネットワークが中心となる、より非政治的な商業システムを発展させた。ハンブルクは、イギリスのように帝国を中心とするシステムと、大陸のように商人のネットワークを中心とするシステムの結節点であることが証明されつつある。
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今後の研究の推進方策 |
ハンブルクが、イギリスとヨーロッパを商業的・経済的にどのように結び付けていたのかを明らかにすることが、何よりも重要である。そのため、ハンブルクのみならずイギリスの研究動向を整理し、さらに中南米とハンブルクの貿易システムを、中南米とロンドンとのそれとを比較してゆきたい。
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