ハンブルクは、1618-1868年の長期間にわたり、中立を維持した都市であった。したがって、とくにヨーロッパの国々が戦争をしていた時代に、ハンブルクの重要性は大きく増大した。近世のヨーロッパは戦争が絶え間なく続いた時代であったので、ハンブルクはほぼいつも重要な都市として機能したのである。 それを明らかにするのが、ハンブルクの「価格表」である。「価格表」とはそもそもヨーロッパの主要な取引所の商品と価格を示したものである。そのデータ入力はまだ途中の段階であり、決定的な結論が出せるわけではないが、それでもなお、ハンブルクには一貫してヨーロッパ、さらにはヨーロッパ外世界からの商品が流入していたとの印象を受ける。すなわち、ハンブルクはさまざまな商品が取引された港であり、ある国が千時期にあった時には、その国に必要な物資を供給していたと推測されるのである。ただしこれは現在のところ仮説にとどまっており、その実証は今後の課題として残される。 ハンブルク商人は、スウェーデンとも取引した。それは、ハンブルクが、スウェーデンのイギリスへの鉄輸出の決済の地であったことからも示される。ハンブルクが、アムステルダム、アントウェルペン、ロンドン商人との取引をしていたことはよく知られるが、スウェーデンとの取引も多かった。しかも、ストックホルムのみならずイェーテボリとの取引も増やし、バルト海・北海の両方における重要な貿易港であることがわかってきた。
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