本研究では、近代東京の軍用地研究として「都心地域:渋谷・代々木・世田谷」を分析対象に戦前期の土地所有状況を調査し、軍用地化する以前の地域社会構造を明らかにした。具体的には、渋谷道玄坂の変容と地付層の関連を明らかにし、軍用地建設までの経過を解明した。東京西南部は、おおよそ次のような変容プロセスをたどった。 明治期から大正期にかけて、東京市西南部の郊外地域の土地利用は変化し、人口が流入し、都市化が進展した。これにともない、渋谷道玄坂周辺には遊興・消費空間が形成されていった。 渋谷道玄坂の変容を探る一つの方法として、近世以来の道玄坂の居住者であった吉田平左衛門家に着目し、吉田家に関する歴史的資料に基づいて、地域社会における吉田家の社会的位置づけの変遷を考察した。吉田家は江戸期から道玄坂沿道に居住しており、富士講の講元としても著名であった。また、明治後半には渋谷村村会議員を務め、地域社会で一定の社会的威信を有していた家である。渋谷道玄坂周辺は、近世は江戸近郊の農村であったが、明治になると商品作物の流入が増加し、商取引も活発に行われるようになった。産業化・都市化に即して、流入者が増加し、吉田家のような地付層が地域社会で占める位置は変化していった。このような歴史的蓄積がある町村が、近代に同一の行政区分に入ることによって、どのように共同問題に対処すべきか、新たな連帯のしくみを作る課題に直面することになった。つまり、幕政期の旧慣そのままではなく、近代の地域社会の慣行を作り出すことが必要になった。吉田平左衛門家を通して、道玄坂の変化を通時的にたどることによって、道玄坂にこのような空間的特徴があることが明らかになり、道玄坂独自の地域特性の一端が解明された。
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