日本統治時代に朝鮮総督府済生院で展開された盲人鍼按教育(1913年4月1日授業開始)の変遷に関する前年度までの研究成果を踏まえ、最終年の平成28年度は朝鮮半島より15年前(1985年)に日本の統治が始まった台湾に焦点を当て、台南・台北を中心に展開された盲人鍼按教育の変遷と済生院での同教育の制度との異同を明らかにすることとした。 台湾は第二次大戦終戦当時、台湾学齢児童の就学率は男児95.5%、女児90%であった。世界各地の文育率が高かった当時にあって植民地下の初等教育の普及は高く評価できる。一方、障害児教育は1890年(清朝統治下)に英国長老教会宣教師William Cambelが台南新樓教会堂に設立した訓盲院が嚆矢となるが、盲人に対する按摩教育は同院を母胎とする台南慈恵院盲人教育部(1900年12月)の枝藝科(3年課程)が最初だった。同教育部は1915年に台南育唖学校に改称するが、同年、軍医木村勤吾により設立された台北訓盲院を前身とする木村盲唖教育所において按摩専修科生3名に授業が開始されてから順次充実し、1922年に私立豪北盲唖学校に改称後、盲生部の技能科と専修科で本格的な鍼按教育が行われた。この実績により1924年8月、同校は按摩術・鍼術灸術営業取締規則による指定学校に認可されたことで盲生部の卒業生に按摩術、鍼術、灸術の各免許鑑札が無試験で授与されることになった。営業取締規則は1911年の日本内務省令第10号、第11号として発布されているから、十数年を経て本土に準じた制度が整ったことになる。ただ、朝鮮領有下の済生院が同規則の適用を受けるのは1914年11月(按摩術・鍼術灸術営業取締規則(警務総監部令第10号)からである。初等教育は朝鮮に先んじて整備された台湾だったが、盲人職業教育の充実・制度化が朝鮮半島より10年遅れた理由と背景は今後の課題としたい。
|