本研究は神宮徴古館・農業館所蔵資料を調査し、神苑会の業績と倉田山建築群の変遷を追うものである。特に片山東熊との関係を中心とする。所蔵資料の中に「東熊」の押印のある青焼き図面が4枚あり、金具利用に関する図面および中央広間に関する図面であったことで、東熊がそれらに関与した可能性が高いと考える。明治38年の棟札には片山の名前がないが、これらの資料により少なくとも部分的に関与したことは確実である。 徴古館は伊東忠太らによる木造徴古館の他、東熊による耐火建築の徴古館も複数の意匠があり、3回設計変更されたと推定される。また天窓でなく側窓採光のため、竣工後の書画展示には家具配置による工夫があったと考えられる。
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