戦前期の住宅不足が社会問題化するなかで、大正10年には住宅組合法が公布され、以後、中流層では借家に代わって持家が奨励され始めた。一方、今日では縮小化社会が叫ばれ、人口減少とともに住まいも空き家が増えるなど戦後に普及した持家の在り方に陰りが見えている。こうしたなかで、改めて借家から持家への過程を振り返ると、政府や企業がどのような持家を普及させようとしたのかという作り手側の論理も、あるいは、人々が持家に何を期待し、何を求めていたのかといった住み手側の論理も、その解明はほとんどなされてこなかったといえる。 本研究は、こうした問題意識をもとに、今後の住まいの在り方を考える一助として、持家志向がどのように定着したのかを、戦前期に持家志向を中流層全般にまで拡大させた民間企業として知られる日本電話建物株式会社(以下、日本電建株式会社)の事業や広報媒体の雑誌『朗』を分析対象とし、持家志向の様相を明らかにすることを目的とした。 その結果、①日本電建株式会社の沿革、住宅啓蒙活動、創設者の持家に関する考え方、及び住宅懸賞から見た日本電建株式会社の住宅作品の特徴などを明らかにし、加えて、日本電建株式会社の経営にみる住宅無尽の役割を明らかにした。次に、②“持家”志向の高まりとして、日本電建株式会社発行の住宅雑誌『朗』にみる持家志向の動向とともに、より広く考察するために、戦前期の住宅関連図書にみる持家志向の動向、および、戦前期を代表する住宅雑誌『住宅』からみる持家志向の動向について明らかにした。 その結果、”持家”志向の高まりの様相としては、昭和初期に見られる住宅無尽の方法は、家賃並みの金額で持家を得る方法として理解され、一気に中流層以下の人々の持家の可能性を高めたこと、また、“持家”を得た人々の多くは借家への不満はあったが、持家に対する明快な理念はほとんど持ち合わせていなかったこと、などが窺えた。
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