研究課題/領域番号 |
26570017
|
研究機関 | 愛知教育大学 |
研究代表者 |
堀内 真由美 愛知教育大学, 教育学部, 准教授 (60449832)
|
研究期間 (年度) |
2014-04-01 – 2017-03-31
|
キーワード | 脱植民地化 / ジェンダー / 英領西インド諸島 / 西インド連邦 / ジーン・リース / フィリス・オーフリー / 脱植民地経験 |
研究実績の概要 |
1. イギリスでの資料収集と考察 2015年9月、ロンドン大学本部図書館(the Senate Library, University of London)において、昨年に引き続き、西インド連邦(1958-62)および英領ドミニカ(現・英連邦ドミニカ)出身のクリオール作家ジーン・リースに関する資料を収集した。また今回は、同ドミニカ出身のクリオール作家、詩人、政治家であるフィリス・シャンド・オーフリー(Phyllis Shand Allfrey)がドミニカで発行した新聞『スター』(The star)の1976年~1982年分を閲覧することができた。オーフリーは、作家としての知名度は同郷のリースに比べ低いが、その政治家としての存在も、これまで西インドの脱植民地過程において、ほとんど言及されることがなかった。来年度以降も、オーフリーという「白人系の女性」という立場で脱植民地過程を政治的に経験した人物に焦点を当てることで、従来の(非白人)男性中心のポストコロニアル研究に新たな分析視角を提供できるだろう。
2.英連邦ドミニカでの資料収集と考察 2016年2月、英連邦ドミニカ、首都ロゾーの国立公文書館において、西インド連邦発足後の様子や崩壊に向かう過程、および島民たちの反応を、1960年に発行された複数の現地の新聞記事を紐解くことで、把握することができた。また、今回は、9月のロンドン資料探索の際に閲覧した『スター』の発刊前に、フィリス・オーフリーが編集を担った『ドミニカ・ヘラルド』の1962年分も閲覧できた。ここからは、西インド連邦崩壊(1962年)後、またドミニカ労働党除名直後のオーフリーの政治的姿勢や、ジャマイカとトリニダード脱退後も、なお「連邦」という形態にこだわりを持ち続けた彼女の心情が読み取れた。 今後、植民地側が抱いた「独立への展望」を考察する際、重要な資料となる。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究の目標は、国家間、あるいは国・地域を超えた個人どうしが、かつての「植民地責任」とどう向き合い、それを言語化して共有していくにはどのような道筋が描けるかを提示することにある。そのためには、どのような思考を持って過去を分析すればよいかを明らかにすることが必要になる。 本研究では、旧英領西インド諸島を背景に、「クリオール」と呼ばれた植民地生まれの英系白人、とりわけ女性の生涯をとりあげ、彼女たちの脱植民地過程における言動を考察・分析しようとしている。彼女たちの故郷の島への愛着や「西インド人」としての自己認識、本国イギリスやイギリス人への対抗心、プライドなどが、「肌の色の異なる同胞たち」に受け入れられたのか否か、受け入れられたとしたら、どのような成果に結びつき、受け入れられなかったのならば、どのような理由からだったのか、それらを詳細に分析することで、「支配した側」が持つべき思考というものを模索できると考える。 今年度は、この点に関して、資料にも恵まれたことにより、二人のクリオール女性、ジーン・リースとフィリス・オーフリーの生涯を、彼女たち自身による文芸作品、彼女たちをめぐる評論、彼女たち自身の政治的姿勢などを掘り起こすことができ、一定の成果を上げられたと考える。
|
今後の研究の推進方策 |
イギリス(ロンドン)での資料探索: イギリスでは引き続きロンドン大学本部図書館での資料探索を行い、主に西インド連邦発足にあたり、宗主国イギリスが思い描いた連邦の展望をより詳しく、一次資料を用いて明らかにしていく。具体的には、植民地省の議事内容などを閲覧し、従来から言われている「冷戦構造のなかで、島々の共産化を阻止する」という目的が、どのくらいの重みを占めていたのかを確認したい。
ドミニカ(ロゾー)での資料探索: ドミニカにおいても、引き続き、国立公文書館での資料検索を行う。残念ながら、現地発行新聞の所蔵状態が十全とは言えず、電子化もなされていない状況では、探索可能な記事件数は限定的にならざるを得ない。しかし、それでも、英領西インド諸島の島々で、実際に島民たちは、どのような「国のかたち」を独立に求めたのか、宗主国との関係性をどのように理解していたのかも探っていきたい。以上のように、ロンドンとロゾーにおける資料検索のうえに、本研究のテーマである、クリオールたちの感じた「植民地責任」とはどのようなものであったかに迫っていく。
|