沖縄諸島において死人を葬った最も原始的な形態は、八重山諸島・宮古諸島の離島などで見られた風葬である。風葬とは、天然の洞窟や「墓場の森」の霊域の中に、亡骸を野晒しするのが元型であった。また岩陰にある人骨は風葬体であり、鳥葬が古い風葬の形式であった。「先祖は鳥の姿を借りて此の世に現れる」という沖縄の世界観の中で解釈する時、その出来事は生者が祖先と触れ合う瞬間となる。 奥武島についての諸説を唱え始めた谷川健一氏は、オウ島は沖縄に七ヵ所あるとしている。青には黄色の概念が混じると仲松弥秀氏も言っており、それが死者を置いた洞窟の中の色の「青」にあたる。オウ島(あの世)と本島(この世)を結ぶ砂洲で、故人の霊魂は彷徨っていると信じられていた。 戦前まで石垣島では葬式を行う家は、念仏鉦の音と女の鳴き声で満ち、「龕(ガン)」を運ぶ葬式行列は墓に着くまで参列者が続いていた。人々は、このように悲しみを表すとともに、死を運んでくる悪霊の侵入を恐れ、各戸の門には竹竿などを置いて厄払いとした。宮古諸島では「龕」に関係する儀礼が現在も行われている事例は見つからず、過去の葬送儀礼になっていた。沖縄本島では、八重瀬町の当銘・小城の共有龕の「ガンヤウガン(龕御願)」と、豊見城市・高安の「ガンゴウ祭(龕ゴウ祭)」が大きな儀式として残っていた。 日本のみならず、世界中で土葬から火葬への移行が推進されている。日本の火葬率は九八パーセントを超えるほどになっている。しかし、与那国島と与論島には龕の葬送文化が現役で残っていた。与那国島では一八九七年から続く野辺送り、葬儀形態を存続している。そうした世の中の流れの中で、二〇〇四年に鹿児島県の与論島でさえ、島で初めての火葬場が開設された。土葬主流から火葬主流へと変わる節目を迎えており、洗骨も廃れつつあった。いま、死の多様性に関して、新しい時代に入ったといえるだろう。
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