世界史的視野の中で医学研究の質が戦前のドイツから日本、そして台湾へと及ぶ過程を解明し、歴史的意義を論じた。 欧米医療は日本による台湾統治開始以後、台北帝国大学医学部を中心にして、ドイツで医学学位を取得した日本人医学者が、近代医学を台湾へ導入した。台北帝大では台湾人に日本本土で学位を取得させた。その結果、1938年以後台北帝国大学ではドイツ医学に基礎づけられた日本医学が、台湾独自の医学の成立を促し、台大が学位を台湾人へと授与した。 第2次大戦後、中国本土から来台した国民党政権は本土回復などの政治的要求を持ち、アメリカ政府の極東戦略に協力する形で、台湾の研究体制全体の脱独日化、親アメリカ化を始めた。在台米軍やアメリカ民間団体からの資金援助による医薬設備と米人医学者の台湾派遣、台湾人医学者のアメリカへの留学により、医学者は個別にアメリカ医学研究体制の中に組み込まれ始めた。 日治期台北帝大医学院唯一の台湾人教授杜聰明は、終戦以前から台湾独自の医薬研究樹立を志し、1945年以後の国民党政権にその助成を期待したが、同政権に任命された傅斯年校長はインターン制の導入、講座制遺制の廃止、薬学研究所新設阻止を以て杜の計画を挫折させた。台湾医学のアメリカ化が進行した。医学分野での学問のグローバル構造の中心が戦前のドイツから、1945年以後アメリカへ移り、旧ドイツ様式を残しつつアメリカ化を道を歩んだ日本に対して、台湾では学の自立化がなされず、アメリカ化が一気に進んだ。 本研究進行の過程で、日本に留学し医学学位を取得した台湾人、台湾に赴任した日本人医学者、そのうちドイツで学位を取得した医学者、お雇いドイツ人医学者について、それぞれプロソポグラフィ調査を網羅的に行い、データベースを作成した。医学学位論文のタイトルを比較し、医学の独から日、日から台湾への導入を実証し得た。
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