今年度は、主に近世大坂の各町で作成された水帳の、近代以降の伝来のされ方を仮説的に提示するとともに、土地台帳たる水帳の所有者の名義切り替え、すなわち帳切(ちょうぎり)がいつまで行われたのかということを、現存する水帳を可能な限り調査し、明らかにすることを検討課題とした。 大半の水帳の帳切は明治12年(1879)2月までに終了しており、これは同年3月の区役所開庁と関係していることを確認した。また水帳が区役所公文書として保管されていた事実も確認し、水帳の区役所への移管時期は区役所開庁の明治12年3月であるとも推測した。 また明治12年2月以降も帳切が行われていた水帳が存在するものの、それでも帳切が確認できるのは明治14年2月までであった。 このような帳切の最終時期は、町が明治地方制度のなかで公的地位を喪失していく時期、すなわち三新法の時期と重なる。つまり町は、地方制度上の地位の転落と平行して、身分的共同体たる町の家屋敷取得規制という機能を失ったのである。また水帳が区役所へ公文書として移管されたという事実は、この地位の転落と平行して町の機能が区役所(官)によって「剥奪」されたことを示している。 なお、今年度は、これまでの研究成果の一部を大阪歴史博物館の特集展示「近代大阪と名望家」(2017年3月1日から4月24日まで)として公表した。天満橋筋四丁目の家持(町人身分)の家に生まれた野村吉兵衛(1875-1934)が残した史料群のなかに含まれる町共同体の動向がうかがえる史料を展示した。
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