従来のメディア研究では、主に「インテリ」もしくは「大衆」に焦点が当てられてきた。前者は総合雑誌研究、後者はポピュラー文化研究が代表的なものである。だが、人々(あるいは読者)は、「大衆かインテリか」という二項対立図式で区分できるものではない。「大衆」層ではあっても、娯楽のみに埋没することを厭い、上級学校への進学への憧れを抱いたり、知的なもの(文学、哲学、倫理など)に関心を抱く人々も多かった(庶民的教養主義)。勤労学生はその代表的な存在であろうし、家計の困難から集団就職をした人々の中にも、こうした層は少なくなかった。 しかも、彼らは決して例外的な存在ではなかった。戦後日本の社会・経済は、彼らのように、遊興に溺れるのではなく、「まじめ」に仕事や生活に向き合った末端の人々によって支えられたのではないか。だが、従来のメディア史研究は、こうした層の存在を視野に入れることはなく、必然的に彼らを主たる読者・書き手とした人生雑誌を扱うこともなかった。戦後社会とメディア史の関わりを考察するのであれば、彼らの存在を直視することは、決定的に不可欠である。 もっとも、近年のサークル史研究では、地方労働者の文筆実践の歴史が掘り起こされつつある。だが、そこでも「インテリとは異質な大衆」が前提視されており、知的なものへの憧憬を抱えた人々の鬱屈や葛藤が焦点化されているわけではない。本研究では、従来、顧みられなかった人生雑誌史を掘り起こし、「大衆とインテリの狭間」で紡がれるメディアの力学について、検証した。 具体的には、昨年度までに収集した資料を時系列的に整理しながら、補足資料を並行して収集の上、人生雑誌に浮かび上がる大衆教養主義と戦争の記憶、格差、学歴、高度成長との関わりを検討し、研究成果として『「働く青年」と教養の戦後史』をとりまとめた。
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