今年度は実験心理学を批判的に解釈しつつ、情念の概念を中心として独自の感情理論を作り上げた哲学者アランの解釈において重要でありながら、研究史上曖昧な点がある二元論と心身合一の概念について検討し、論文を執筆して日仏哲学会の学会誌に投稿した。デカルト主義者と評価されることの多いアランの心身二元論には実体と実在性の観念がないように見える。デカルトは精神と身体の実体的区別をするにあたり、全能の神の概念に依拠しているが、アランの二元論では、神は普遍的な精神の同義語として以外現れない。アランは実体の概念をカントが『純粋理性批判』で悟性のカテゴリーに含めた関係のカテゴリーと同一視している。アランの超越論的観念論によれば、つねに単一である純粋統覚としてのコギトは、知覚の反省的分析をとおして見出されるものである。物質的世界としての純粋な実存は、必然的に存在するものとして措定される。この立場は独我論から区別する必要がある。対象認識のもっとも原初的な様態を想定すると、思考としての「私の身体」は心身合一の経験についての情感的な意識において実存へと開かれており、他のもろもろの物の認識の条件となっている。他なるものの全体的で情感的な認識であるような感覚・感情(sentiment)および「私の身体」と他の物の像の形成は、すでに行われた対象認識の反省的分析によって行われる精神と身体の区別に先行している。アランの二元論がデカルト的といわれるならば、それはアランが心身の実体的区別をそのまま援用したからではなく、二元性を、経験を可能にする悟性の要請として定義したからである。19世紀に支配的であった唯心論と唯物論の対立図式に同意せず、情感性が受動的であることによって実存へと開かれている「私の身体」の概念に依拠し、心身合一の事実にとどまった。また研究のまとめとして2016年に刊行予定の単著『アラン』の原稿を執筆した。
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