本研究で明らかとなったのは、主に二つある。一つ目は、満鉄農事試験場の水稲品種や関連知識は、戦後に中国国民党や共産党の中国人幹部に利用されていたものの、その扱いは在来農業の一環としての栽培を支えるものであり、かつて満洲国が目指したような日本の精神性までを注入するような教育はなされなかったことである。二つ目は、満鉄農事試験場等で勤務していた日本人は、帰国後も満洲時代の研究や農事指導内容を否定することはなく、むしろ、同じ経験を有する人々との交流を深めながら、農業近代化への貢献を主張し、戦前の活動を再評価していたことである。
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