本研究は、日本法において、習律を独立した規範カテゴリとして承認すべきか、つまり多元論を承認すべきか否かを問うものである。本研究は、多元論と一元論の対立を取り上げてきた従来の研究を踏まえつつ、多元論の日本法への応用可能性を探るべく、一元論の暗黙の前提や根拠を動揺させると同時に、日本法に多元論を導入する際の考慮すべき課題を特定できている点に、重要な意義があると考える。その具体的内容は次の三点である。 第一に、J. A. G. Griffithの政治的立憲主義の特徴を析出することにより、多元論に対する批判が当面しうる問題を特定できた。政治的立憲主義一般が根拠として挙げる対立の実在性や状況変化に伴う人心の変化、さらにGriffithの政治的立憲主義の根底にあるニヒリズムは、成文憲法国においても回避できない。多元論に対する批判が立脚するところの近代立憲主義はこれに対峙する必要がある。 第二に、J. Goldsworthyの憲法理論の特徴を浮き彫りにすることで、法学方法論上、憲法と習律を区別すべき理由を解明できた。Goldsworthyは、法システムの存在の政治道徳への部分的な依存関係、法の整合性の維持、さらには法的妥当性を道徳的尺度に依存させることの危険性といった諸観点に基づき憲法と政治道徳を峻別すべきであるとするが、この点は憲法と習律を区別すべき根拠となるように思われる。 第三に、一元論の主張構造を吟味しそれとの対話を重ねることで、多元論が当面すべき課題を特定できた。多元論は、一元論に有利にはたらきうる実務上の習律の取扱いに対して十分に理論的に応接できているわけではない。多元論は、その前提としている強行と認知の区分論を補強し、また、制定法解釈における習律の位置づけを再考し、さらにはカナダにおける習律に関連する諸先例を整合的に説明しうる理論枠組みを提示する必要があることが判明した。
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