本研究は、日本とフランスにおける避妊についての言説を分析し、そこに示される身体観をあぶり出すことを目指してきた。これまでの避妊の言説分析から明らかになったのは、避妊が、身体観の反映であるのみならず、自己と他者の関係および自己の有り様をコントロールする場として機能するということである。ただし、自己と身体との関係の捉え方は、日仏で大きく異なる。 1970年代の日本の女性運動(ウーマン・リブ)においては、自然な身体でいることへのこだわりとともに、男女の不平等な力関係の矯正と、ありのままでいたいという理想の自己像の実現という観点から、ありうべき避妊の実践が論じられた。このような論点は、フランスの避妊をめぐる議論に現れてこない。 フランスにおいては、避妊合法化が求められた1950年代後半から60年代、避妊はカップルや家族の幸福を実現する手段、あるいは非合法の中絶の悲劇を抑制するための手段と位置づけられ、避妊と女性の身体の関連が論じられることはあまりない。避妊と身体の関連が論じられはじめるのは、1970年代の中絶合法化運動の中においてである。そこでは、避妊は、女性が自身の身体を自由にする権利行使の一部と位置づけられている。この身体への権利から避妊を考察する視点は、日本の女性運動にはほとんどみられなかったものである。 このように、日本とフランスの避妊をめぐる議論において自己と身体との関係の捉え方は、日仏で大きく異なる。この差異が、両国のリプロダクティブ政策の歴史および現状の背景にあるというのが、本研究を通して得られた知見である。
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