中国古典歌謡文学は詩・詞・曲の順に展開した。この中で、ベトナムにおいて最も受容されたのは詩である。そして詞の受容については限定的で、作例は多くない。本研究ではベトナムの詞に着目し、中国古典歌謡文学の一ジャンルである詞が、ベトナムでどのように受容されたのかを検討した。 ベトナムの西山朝(1788~1802)は、清朝の乾隆帝八十歳の祝賀のため、詞十首を作り献上した。西山朝は、この詞十首にベトナムの音楽をつけ、乾隆帝の面前で、楽人に歌唱させたことが資料から分かる。また清朝の楽人との共演もおこなわれたようである。 この詞十首について、清朝側の資料には西山朝皇帝阮恵の名が冠してあるが、実際には清朝との対外交渉に当たった潘輝益が代作したものであることが『星槎紀行』によって分かる。この潘輝益が作った十首の詞の中には、楽春風という詞牌が含まれている。この詞牌は非常に特殊なもので、明代小説中にのみ使用例を見出せる。 この詞牌楽春風を手がかりにして、ベトナムに残存する資料から推測するに、潘輝益はおそらく通俗類書『国色天香』を手本にして、詞を作ったと考えられる。 また潘輝益の作った楽春風のスタイルから、彼の手本とした資料へと遡ろうと試みた。しかし、潘輝益の楽春風のスタイルは、他の楽春風の作例すべてと合致しない。その原因には、二つの可能性が考えられる。一つは、潘輝益が楽春風のスタイルを読み誤った可能性が考えられる。もう一つは、西山朝との交渉に当たった清朝の福康安は、乾隆帝に献上する前に、詞十首を校閲していたことが資料から分かる。校閲の際、詞譜などを参考にしていなかったようであるから、あるいは福康安によって楽春風のスタイルがくずされた可能性もある。 以上に述べたような過程から、西山朝において、詞は詞譜ではなく、通俗類書を通じて受容されたことを明らかにした。
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