最終年にあたる28年度はこれまで収集した史料をもとに、宇佐八幡宮の諸儀式における陰陽道の役割についてさらに調査を進めた。具体的には式年遷宮における杣始めの儀式と鎮疫祭について調査した。 まず、宇佐八幡宮では元慶4年(880)から33年に一度式年遷宮が行われはじめたが、これによって3ヶ所の杣山が定められた。一之殿は豊前国築城郡伝法寺村(現福岡県築上町大字本庄1641番地)の大楠神社、二之殿は豊前国上毛郡川底村(福岡県豊前市川底)の須佐神社、三之殿は豊前国下毛郡三光村臼杵(大分県中津市三光)の手斧立八幡宮である。一之殿、二之殿ともに楠の巨木が現存し、前者は推定樹齢1900年、後者は1200年とされる。また、一之殿に関わる史料として安政3年(1856)「御杣始之儀絵図」(築上町指定文化財)をみた。ここに宮司や祝大夫と並んで陰陽師が描かれ、その陰陽師が僧形であることを見いだした。これは宇佐地域おける仏・陰陽道の習合を考える上で重要な発見である。また、二之殿には「宇佐神宮のお杣始めの掛札及び箱」(豊前市指定有形民俗文化財)が現存する。安政2年の杣始神事において使用された札に神事に参仕する宮行事以下の諸役が記され、陰陽師と権陰陽師が含まれる。裏側に人名が注記してあるそうだが、残念ながら実物を調査するには至らなかった。今後の課題としたい。 鎮疫祭は、毎年2月上旬に宇佐八幡宮の祖社とされる薦神社と宇佐八幡宮で行われる疫病祓の祭祀である。『宇佐宮寺年中行事一具勤行次第』『宇佐宮寺年中月並神事』にみえる宮心経会を起源とすると考えられ、中世までは陰陽師も参仕していたが、現在の鎮疫祭では陰陽師は見られない。 また、本年度の成果としては、陰陽道祭祀の視点から災害について論じた「中世都市鎌倉の災害と疾病」を発表し、風伯祭を事例に中世陰陽道祭祀の特質と神祇・道教との関係を視野に入れた報告を行った。
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