研究課題/領域番号 |
26882042
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研究機関 | 明星大学 |
研究代表者 |
坂本 拓弥 明星大学, 教育学部, 助教 (30734298)
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研究期間 (年度) |
2014-08-29 – 2016-03-31
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キーワード | 体育教師 / 身体 / 実存 / 言語 / 体育授業 |
研究実績の概要 |
本年度は、これまでに検討してきた現象学的身体論について、改めて実存的な論点に着目することによって、身体に関する実存的な理解を見出すことを目的とした。これは、体育教師の身体の実存的意味を明らかにするための、予備的な考察である。具体的には、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』における記述に着目し、身体的現象の実存的な特徴を検討した。またその際、彼の言語論に着目することで、体育教師の指導言語とのつながりも視野に入れて考察を行った。 本年度の考察の結果は、簡潔に以下のように示すことができる。すなわち、身体的言語論から捉えた体育教師のことばとは、単なる意思伝達の記号ではなく、身体的所作としての側面を併せ持っており、それゆえそのことばが児童・生徒に届くということは、他でもなく身体的な事象、すなわち、生のレベルにおける実存的な事象と理解することができる。また、体育教師が生きる体育授業の知覚的な経験が、他教科と比して豊かであると考えられる理由は、奥行知覚という極めて実存的な経験が、顕著に現れることから理解される。それは、体育授業において必要不可欠の言語的な指導において、身体的所作としてのことばを発することで実現されていると考えられる。体育授業におけることばのやりとりは、体育教師と児童・生徒との実存的なかかわりを担っているのであり、それは奥行知覚に代表される、空間の豊かな知覚的経験によって達成される。ここに、体育教師が発することばの、身体的意味を見て取ることができたといえる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
体育教師の身体の実存性について、メルロ=ポンティを中心とする現象学的身体論の視点から捉え直しを進めることができた。また、そのような身体の実存性を体育教師の発することばとの関連から探ることができた点は、当初の予定を上回る考察の成果であったと言える。加えて、体育教師と児童・生徒との実存的なかかわりにまで議論を深めることができたことは、次年度の授業場面における具体的な検討にスムーズに移行していくことを可能とすると考えている。ただし、唯一当初の計画と異なっているのは、サルトルの「赤面」に関する記述を検討することができなかった点である。したがってこの点については、ハイデガーの『ツォリコーン・ゼミナール』の検討とともに進めていきたい。
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今後の研究の推進方策 |
2年目にあたる次年度は、体育授業という教育実践の場に考察の対象を移していく。本年度検討した身体の実存的な在り方の理解に基づき、それを体育教師の生きられた身体として再構成することを試みていく。そこで重要となるのが、ヴァン・マーネンが論じている教育哲学(現象学)的視点である(『生きられた経験の探求』)。本年度検討する課題は、主に以下の2点である。 第1に、体育授業を成立させる体育教師と児童・生徒との教育的関係の中で、体育教師が実存的にどのような在り方をしているのかを検討する。これは、体育授業を生きられた世界(生活世界)として教育哲学(現象学)的に省みることで明らかにされる事柄である。例えば、知覚的経験の典型例である奥行きは、あらゆる次元のなかで最も実存的なものとされる。このような知覚的経験を成り立たせているのは、他でもない身体であり、したがってこの議論から、体育教師の身体の実存的な在り方を検討する。 その上で、第2に、児童・生徒との教育的関係の中に見出される体育教師の身体の実存的な意味を明らかにしていく。本年度検討した「怒り」といった実存的な現象は、ここで体育教師の身体的行為として捉え直される。特に注目すべきは、この「怒り」等の体育教師の実存的な身体的行為が、児童・生徒との関係において発現するという点である。体育教師自身に自覚されることのないこのような現象は、彼らが児童・生徒と身体的に実存的な関係を作り上げ、それを生きることによって成り立っていると考えられる。本研究は、最終的にこの点に、体育教師の身体の実存的な意味を見出すことができると考えている。
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