研究概要 |
1.川辺だけで本格的に仏壇製造が可能になったのは、大正末期からである。そして「川辺仏壇」産業が大きく発展したのは昭和30年ごろからで、一般家庭向けの小型仏壇(川辺仏壇の特徴でもある)が需要者の要求にマッチし、また鹿児島県による地場産業の振興策もあって生産は急上昇した。今日では製造工程の分業化(木地,彫刻,宮殿,錺金具,塗装,蒔絵,仕上げの七職種)も進み、全国屈指の仏壇産地として成長した。 2.しかし、農家兼業(半農半工)の仏壇産地として発展した過程において、一貫生産に必要な資本の調達、従業員の確保が困難であり、必然的に分業化の傾向をたどらざるを得なかったこと。換言すれば、塗仏壇は一種の美術工芸品としての商品で手工業によるところが多く、また、宗派上の差異、市場の地域的特性からして、多様な製品が要求され、本質的に近代的な工場で一貫生産されることが不向きなものであるということに起因するものである。 3.川辺仏壇協同組合は指導体制が弱く、組合の方針や指示が徹底していない。現在組合活動は極端にいえば、親睦団体の域を脱せず、非組合員企業も多く組織的な経済活動は積極的に行われていないのが現状である。しかし、すべての産地振興対策の具体的な推進母体は、どうしても組合でなければならぬことを考えると、今後組合の果すべき役割はきわめて重大である。 4.明治初期からの真宗開教において、東西両本願寺ではその進め方に差異が見られた。即ち、本願寺派の方は、当初から殆んどが「住職制」であったのに対し、大谷派の方のそれは「在勤制度」をとっていた(今日では殆んどの寺院が寺号を公称して住職制とかわったが、なお一部の寺院は在勤制度又は特命住職制をとっている)。川辺町の大谷派2ケ寺はこの制度のもとにある。この点が当地域における東西両派寺院における寺檀関係に特徴的な差異を生むことにもなった。
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