18世紀のフランスは「啓蒙の時代」「理性の時代」と呼ばれるが、ユダヤ人問題(とくに差別排除、解放の問題)に関しては理性的でも進歩的でもなかった。ユダヤ人の絶対数が少なかった事(王国からの追放令は革命に到るまで解除されていない)、ユダヤ人内部に対立があった事(ボルドーを中心とするセファルディーム=富裕・特権者とメスを中心とするアシュケナジーム=貧困・被抑圧者の間の対立)、モンテスキューを例外として啓蒙思想家が概して反ユダヤ的であった事、ドイツと違い宮廷ユダヤ人が存在しなかった事などが、この時期の特徴と言えよう。ただし、7年戦争中のユダヤ商人の活躍と、重農主義思想の普及が下地となり、ルイ16世の即位(1774)以後、事態は変貌のきざしを見せ、1780年代になるとドイツ、オーストリアにおけるマスキリーム(開明派ユダヤ人)の思想が入ってきて、急速にユダヤ人問題は脚光を浴びることになる。ドイツ人ドームの著書の仏訳、ミラボー伯の著述、メス・アカデミーの「ユダヤ人をより幸福に、より有用にするため」懸賞論文募集と当選3論文、マルゼルブによるユダヤ人問題研究委員会の活動などが見られ、革命の母体となる三部会召集の際の「カイエ(陳情書)」の中にも、この問題への諸意見が見られる。これに先立ち、ユダヤ人に課されていた「特別入市税(ペアージュ・コルポレル)」は廃止され、(1781年1月)、「人権宣言」によるユダヤ人の理論的解放と1791年9月の立憲議会によるユダヤ人解放令に到る道を開いた。ここに達するまでの道程は、啓蒙思想家による直接の運動によって辿られたものではなく、むしろ経済的な理由と自由な雰囲気という間接的要因によるものと思われる。その根元を16〜17世紀に遡って調査することと、革命以後の動向をナポレオンの政策、王政復古期の変動、産業革命期のユダヤ人の動きを調べることによって追求するのが今後の課題である。
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