研究概要 |
幕末以降のいわゆる洋風建築が西洋建築の影響を直接受けて発展したことは紛れのない事実であるが、その歴史は西洋建築史の概念では律しきれない独自性を示している。とりわけカトリック教会堂建築史は西洋的様式史では説明不可能である。そこで本研究はわが国独自の自律的な発展過程の解釈を実証的に試みたものである。 全国に残存する戦前の遺構数を調べると、長崎大司教区と福岡司教区とで全体の約7割を占めるため、長崎県地方の調査研究に大きな比重を置くことにした。 まず、明治10年代の初期教会堂においては、(1)単層屋根構成,(2)正方形状会堂部,(3)露出した貫,の3点を特徴とし、最も原初的な形態を有する遺構はここに復原を試みた立谷教会堂と言明できる。教会堂建築は大正2年の今村教会堂において完成の域に到達する。昭和初期にはRC造教会堂が出現し、リブ・ヴォールト天井に代って大正期に折上天井が採用され、形態は多様化する。以上のごとく、空間構成と構造との関係から教会堂建築の変遷過程の全容を明らかにした。更に、建築史学の重要な課題の一つである時代区分をも試み、変遷過程を準備・展開・完成・停滞・多様化の5つの時期に区分することを提示した。 また、日本人大工と外国人宣教師との関係について考察し、特に建築に秀でた4人の宣教師が鉄川与助を始めとする日本人大工に直接的に西洋建築技術を伝えたことを、遺構調査によって示した。このような状況は他の居留地においても同様であったと思われるが、とりわけ鉄川は数多くの教会堂を設計・施工しただけでなく教会堂建築を完成に導く重要な役割を果たし、その後も更なる展開を求めて新しい内部空間の創出を試みた。この点において彼を棟梁建築家として位置づけた。
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