研究課題/領域番号 |
61450082
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研究機関 | 宮崎大学 |
研究代表者 |
市川 信愛 宮崎大, 教育学部, 教授 (90039800)
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研究分担者 |
黒木 国泰 宮崎女子短期大学, 助教授 (90132513)
小沼 新 宮崎大学, 教育学部, 教授 (20040933)
山内 正博 宮崎大学, 教育学部, 教授 (70040904)
福宿 孝夫 宮崎大学, 教育学部, 教授 (30145403)
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キーワード | 日本華僑の系譜 / 近代日本と華僑 / 華僑社会の展開 |
研究概要 |
(1)実証的調査と研究の進展 日本華僑社会のルーツをまず長崎に求めるとする立場から、主題への接近を長崎唐寺に現存する墓標群の実態調査から着手した。幸い、いわゆる「四福寺」(黄檗宗)のうち崇福寺,興福寺については、既に黄檗宗研究家の宮田安氏を中心とするグループによって、ほぼ調査が終了していたため、その結果を提供してもらい、科研費から印刷、刊行し、華僑史研究者(台湾、中国大陸を含む)に配布するとともに、それを素材とする研究会を長崎市において2回、宮崎市において2回行った。また、これと併行して、長崎でもっとも古い外人墓地をもつ悟真寺(浄土宗)に残る中国人墓石群の調査を昭和61年11月と62年1月にかけて延20日間、台湾の留学生と地元郷土史家の応援のもとに行い、ほぼその調査を完了、来年度に若干の補足調査を残すのみとなった。なお、福済寺は、原爆によって被害をうけ、中国人墓石の確認が困難なこと、聖福寺(広東寺)は、もともと中国人墓地が存在しないことから調査対象からはずした。 (2)研究課題の究明への接近 長崎華僑社会の形成の系譜を、16世紀後期の長崎港の開港(1571年)とみる立場と、安政の開港(1862年)に求める立場がある。未だ、端緒的な研究ではあるが、悟真寺で発掘調査した『過去帳』(3巻)の分析と、墓石群の調査の中間検討によって、ほぼ前者(16世紀後半)に遡ることが可能であるという重要な手掛りをうることができた。しかし、開港時の長崎はキリシタンの町であったため、最初の華僑がカトリック信者に限られていたのではないかという想定がなされるが、それを解明する手掛りは未だない。現時点では、江戸幕府の禁教以降に渡来した仏教徒華僑の定着(在宅唐人)の究明を中心に進めている。
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