本研究の目的は、国民学校初等科児童の縁故・集団疎開二学童疎開が都市防空戦の足手まといを遠ざけ、将来の兵力を温存する「学童の戦闘配置」として実現したこと、またその故にきわめて非教育的借置として展開せざるを得なかったこと、にもかかわらず児童の「熱誠」を充分に実現し得たことを実態的に把握することを通じて、学童疎開が果した歴史的役割を明らかにすることを目的としていた。 1.本研究では以下のような史科調査を行なった。 (1)国立公文書館所蔵『公文類聚』の疎開関係文書 (2)防衛庁防衛研究所所蔵旧陸軍関係公文書就中都市防空作戦関係史料 (3)『都公報』、ならびに都下国民学校学童疎開体験者による回想記録 2.これらの史料調査・分析を通じて得られた知見は以下のとおりである。 (1)学童疎開は、東京都をはじめとする重要都市における人員疎開が、都市空襲が本格化した1945年3月以降に非組織的緊急避難として展開したのに対し、疎開政策としては比較的早期にしかも組織的に実現した例外的施策であった。 (2)東京都は、1944年3月以降疎開学園設立・縁故疎開を推進したが、これは政府に先行してとられた独自の措置であった。 (3)政府の学童疎開政策は、1944年6月以降に急據準備に入り、サイパン陥落以降に本格的に展開した。45万人もの児童が疎開するのに、食糧・住居ならびに校舎・引率教師・寮母・保健衛生・輸送など受入条件を殆んど整備することなく強行したことが、学童疎開の非教育的性格を特徴づけている。日本の学童疎開は、ヨーロッパ諸国就中英国などでは第二次大戦開戦以前から小学生の疎開を周到に準備していたのとは対照的であった。
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