研究概要 |
イ) フランス啓蒙期(1750-1789)にあらわれた教育論の数は, 最低400である. その中心は(1)中等教育改革,(2)女子教育(3)『エミール』批判である. ロ) イエズス解追放に関する関与した高等法院関係者で教育改革論を現した人物として従来知られていたラ・シャロテ, ギトン・ドゥ・モンブオの他にモンクラール(グルノーブル), セサン(グルノーブル), ラヴェルディ(パリ)らがいることがわかったが, 教育論の所在はわからなかった. ヘ) 先行研究等によれば, 従来知られていた三人の中で, もっとも体系的・総合的な教育改革論を著わした人物はラ・シャロテであるとされていたが, この評価はやはり正確であった. ニ) ラ・シャロテは, 学生数・コレージヤ数縮減=制限論を展開したが, 他の人物は, この点不明である. ホ) 従来, テュルゴがその『都市論』において中央集権的教育制度・行政機関の整備を主張したといわれていたが, 本当の執筆者はデュポン・ドゥ・ヌムールである. というのが近年の研究成果である. ヘ) 中等教育改革論の中にあって, (1)教育からの宗教色の一掃(2)中央集権的教育行政機構の整備・確立(3)教科書・教員管理の制度化などにおいては一致しているが, 古典語学習と近代語学習のどちらを重視するかについては意見が多様である. ト) 中等教育論にあって, 民衆の教育機会の拡大については大方が批判的・否定的であるが, 初等教育については肯定的意見がみられる. これをすすめていくと, 民衆のための初等教育とブルジョワやエリートのための中等教育という階級的複線型教育制度論に発展していく. その典型が重農主義派のボードーであり, フィリポン・ドゥ・ラ・マドゥレーヌであり, 革命後のデステュットゥ・トゥラシーである.
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