かつて医師は、ヒポクラテスの憲章に従って患者の治療と延命のみを志向して来たが、技術の進歩にともなって臓器移植が可能となると、ドナーとレシピエントの相反する利害関係をどのように理性的・倫理的に調整するかが、新しい深刻な課題となった。Strunk V.Strunkのように優秀な兄の延命のために精薄の弟の腎移植が争点となったアメリカの判例は、「生命の質」、「差別」、「カントの定言命令」にいう「人間性の至上目的性と脱手段化」、無能力者の意思の「司法代行論」など、バイオ・エシックスや法哲学上の正義論を巻き込んだ数多の諸問題を提起するので、これを本年度の研究の中核において、「脳死問題」にふみ込んでいった。 死がかつては誰にでも明白な三徴候(呼吸・心拍停止、瞳孔拡散)に準拠していたのに反し、脳死は臓器移植、医療費・資源の有効能率的配分を志向する説明を要する目的的な概念である。自己決定権に基づくリビング・ウイル(生前発効遺言)があればともかく、脳死はデカルトの心身二元論にはじまって、カント哲学、ウィーン学派、人間機械論(ウィーナー)をそれぞれ深く法哲学的に分析する作業にも追われ、一応の成果をみた。 バイオ・テクノロジーやハーバード大学の遺伝子組み替えのP3施設をめぐっての市民参加論のように、脳死も専門家のみで決することのできない問題で、日本の精神的風土や生命観も包摂した社会的合意形成が不可欠であることを諸大学の医学部教官のヒヤリングを行った結果、強く感じた。 "人類愛にみちた脳死患者からの臓器提供"といったパターナリスティックな主張は、専門家や有識者の一部による倫理のおしつけであって、家族を含めての人間の自律と自由な自己決定権が、最大限に保障されなければならない。
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