從来、19世紀末〜20世紀初頭のイギリス帝国財政と地方財政については、それぞれ、幾つかの研究がなされてきた。しかし、それらは両者を別個に取り扱っており、両者の関連、とくに地方財政が帝国財政に与えたインパクト、さらには両者の関係も統一党と自由党という異った政策主体がどのように処理しようとしたのか、等の問題については、ほとんど研究されなかったように思われる。本研究ではその点に着目し、次のような研究成果をえた。 まず統一党政権下(1895-1905)の地方財政においては、種々の国家的サービスのための負担が急速に増大し、また借入が大規模に行われたため利子支拂が増大した。こうして地方財政は危機的状態に陷り、地方税納税者の負担が重加されたが、統一党政権は補助金を若干増額するなどの措置をとったのみで、「地方自治」尊重=地主的利害擁護の立場から、ほとんど放任主義に終始した。また、現実的にも南阿戦争による帝国財政圧迫のため何もなしえなかったのである。 次に自由党政権下(1905-1914)においては、補助金制度について若干の改善措置がとられたけれども、根幹をなす地方税改革については、貴族院の壁に阻まれた。從って1908年、ロイド・ジョージは地方税改革=土地課税問題を帝国財政レヴエルにおける「土地増価税」へと換骨奪胎し、その収入の半分を地方に交付することとした。しかし、このような中央集中主義的政策をもってしては、地方財政の諸問題は解決される筈はなかった。それ故、ロイド・ジョージは1911年以降、再び「地方主義」を志向し、1914年予算で地方税問題を解決しようとしたが、大戦勃発のため延期のやむなきに至った。
|