研究概要 |
和州法隆寺村の大工たちは江戸初期から京大工頭中井家の大工組織の中核を形成していた. 彼らは棟梁階層に組み込まれる者と組頭に統率される組大工とに分けられるが, 元禄6年(1693)の中井役所成立以前には中井の棟梁層の約半数が法隆寺村の者で占められていた. 寛文度や延宝度の御所造営ならびに元禄5年(1692)時には50名前後の棟梁が村内にいた. 役所成立以降になると, 中井の棟梁層は30名前後に削減されるが, それらの大半はやはり法隆寺村の大工たちで, 役所成立以前よりもその比率はむしろ高くなっている. ただし彼らは次第に京内に移り住むようになり, 法隆寺村の棟梁村としての性格は弱まっていった. ちなみに幕末まで村内に居を構えていたのはわずかに安田家のみであった. また中井の棟梁組織は「御扶持人棟梁(三人)」, 「受領之棟梁(五人)」, 「並棟梁」からなるが, 内裏造営などに際して任命される「受領之棟梁」は大半が法隆寺村の棟梁から構成されるのが常であった. そしてこの中の2人は「頭棟梁」として中井家に作事組織の責任者の立場にあった. 寛永度〜寛文度造営の今奥和泉や承応度〜延宝度造営の今奥出羽などはこの代表例である. 一方, 組頭の下に組大工として組織されていた大工も江戸中期には村内に150人前後みられ, 8つの大工組が存在していた. これら大工組大工も京棟梁10人に引率られていた京大工組(10組)とともに中井配下の大工組の中では上位に位置していて, 作事では要所に配されていた. ただし役所成立以降には棟梁層と同じように次第にその数が減少し, 幕末になると, 村内だけでなく周辺の村々の大工たちからなる「法隆寺組」にまとめられ, 五幾内・近江の各地の大工組と同等な一大工組として存するに至った.
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