本年度の計画では、明治期に遡って同期における長家所蔵史料を分析し、同家の無動力沖合漁業(沖手繰網漁業)への係わりについて研究をすすめる予定であったが、当地番住港における沖合漁業発展の要因を総括的に把握するためには戦間期、とくに大正末期から昭和へと続いた恐慌期およびその後の戦時経済体制に至るまでの、地元の普通銀行(現・但馬銀行)と沖合漁業との関連を重視した分析が不可欠であるとの認識を深め、62年度の延長として本年度もこの期に的を絞って研究をすすめた。 現在兵庫県の北但馬地方には沖合漁業の根拠地漁港として、津居山港(現・豊岡市内)柴山港(現・香住町内)香住港(現・香住町内)の3港が存するが、所属漁船トン数、年間水揚高等規模のうえでは香住港が最も大きい。ところが大正末期頃までは、前2港は香住港をはるかにしのいでいた。明治末期より始まった漁船の動力化もこの順序で進展し、香住は最も遅れた。香住港が他の2港に急速に追いつき追い越したのは昭和恐慌期以降のことである。この期は県外・海外漁場への出漁に伴う漁船の大型化が要請された時期でもあり、漁業者にとってはそのための資金の調達が急務の課題であった。一方前述した地元の銀行は、すでに大正12年には経営の主導権が、地主・利貸資本の手から離れて漁業関係者上層へと移されていた。とりわけ昭和8年から開始されたソ連沿海州沖合漁場出漁の際には、同行の融資により漁船の新・改造が急速に推し進められ、香住港への水揚高は飛躍的に上昇した。また昭和10年代に入ると同行の預貸金の実に半数以上は漁業者で占められるに至り、同行は小規模ながら「時局(二食料増産)産業」へ融資する「水産金融銀行」であるとして、一県一行主義下の銀行整理・統合をまぬがれて、単行として戦後まで存続し、現在に至っている。(成果は次頁の通り)
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