研究課題/領域番号 |
62045030
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研究種目 |
国際学術研究
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 大学協力 |
研究機関 | 郡山女子大学 |
研究代表者 |
金田 尚志 郡山女子大学, 家政学部・食物栄養学科, 教授 (50005568)
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研究分担者 |
黄 慧性 成均館大学校, 家政大学, 講師
金 天浩 漢陽女子専門大学, 栄養管理研究所, 教授
依田 千百子 摂南大学, 国際言語文化学部, 教授 (20149149)
金子 憲太郎 郡山女子大学, 短期大学部・家政科食物栄養専攻, 助教授 (70112612)
佐原 昊 郡山女子大学, 家政学部・食物栄養学科, 教授 (10137614)
HWANG Hae Sung Sung Kyun Kwan University Lecturer
KIM Chon Ho Hanyang Women's Junior College Professor
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研究期間 (年度) |
1987 – 1989
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キーワード | 韓国食文化 / 秋夕(シュウセキ) / 神饌 / 馴れずし / ヒビンパプ / ヂョッカル |
研究概要 |
本研究は近くて遠い国といわれる韓国の実態をより深く知るための一手段として、韓国の食文化について検討し、この文化がどのような影響を日本に与えたかを知ることにより、韓日両国の関係についての認識を深め、この認識を通して日韓親善を計るための一助にしたいという考えに基づいて開始したものである。 韓国と日本との交流は古く、何世紀の頃から調査を始めたらよいか、まことに迷ったが、韓国食文化の日本への影響を中心にして考えると、韓国人が陸続と日本へ来た5〜7世紀の集団渡来期および豊臣秀吉の文禄、慶長の役における陶工の連行などが主たる交流と考えられる。 研究代表者および研究分担者らはまず、日本において韓国食文化の影響がもっとも残りやすいのは神社仏閣であろうと考え、初年度は韓国における行事食とくに秋夕(陰暦8月15日)と正月茶礼の祭祀饌について調査した。その結果、これらの祭祀饌は李朝時代に規定された朱子家礼の「四家便覧」に則っており、また儒教的形式の中に韓国固有の伝統食の思想と原形を認識することができた。(なお、初年度においては、現代韓国人の日常食につき、三世代家族と核家族間の比較を行ったが、三世代家族は核家族より伝統色の強い食事をしているのが特徴的であった。また、韓日両国の男女中学生を対象として、食事の仕方を調査したところ家族が決まった食器具を使用している割合は、日本では箸、飯・汁椀が多く、韓国では匙が多い点が日本とは異なっていた。) 前記、韓国における祭祀饌調査に続き、63年度は韓国側研究分担者が来日し、日本の神饌について調査した。すなわち、韓国に近い出雲大社および出雲大社より古いとされる島根県八東郡の佐太神社および同県松江市の神魂神社などを、また平成元年度には春日大社、高麗神社などを調査した。その結果、韓国祭祀饌との間にいくつかの共通点が認められた。例えば、神魂神社の馴れずしは韓国の海岸のものと非常に類似していた。また、春日大社は1,000年以上前の神饌が現在に伝わっていると考えられ、とくに攝社若宮神社の大祭「おんまつり」の神饌は韓国の還暦の祝い膳とよく似ていた。埼玉県高麗にある高勾麗神社は西暦716年に高麗王若光が1,799人の高麗人を連れてきた場所に建てられたもので、神饌の小豆粥は韓国でもよく使われている。 韓国側の調査結果を踏まえ、韓国食文化の日本への影響をさらに詳細に知るため、韓国の儀礼食、日常食の地域性について調べた、すなわち、63年度に全羅北道全州市、慶尚南道釜山市、慶尚北道安東市を中心に調査した。その結果、水稲耕作を中心とした全州では米を主体としてヒビンパプ(祭祀飯)と米粥を中心とし、これに各種海産魚によるヂョッカル(塩辛)を加えた、米と魚の組み合わされた韓国南西部の食文化の地域的特性がはっきりした。また釜山の幣帛(婚礼)饌では糯米、粳米の餠のほかに、タイ、エビ、アワビなどの重要性が日本の婚礼食と類似していた。内陸部の安東市では、キムチをはじめ各種の郷土食を調査した。 上記の諸調査を通じ、日本側が強く感じたことは、韓国人と日本人の味嗜好には異なる点があるということであった。すなわち韓国人の嗜好はキムチに加える塩辛などに含まれるエキス分、オリゴペプチドなどを好むのに対し、日本人はグルタミン酸に富むコンブやイノシン酸の多いかつお節の出汁に対し強い嗜好を示すように思われた。 現在、韓国では1人当たりのグルタミン酸ソ-ダの使用量は日本をうわまわっているが、郷土料理について分析してみるとグルタミン酸の代わりにアラニン、プロリンを主体とする食品群が存在することを認めた。 以上の結果をまとめて考えると、韓国から渡来人がもたらした食文化は、神社や寺院の儀礼食などとしては残存しているが、その他の多くは日本人の食嗜好には合わず、次第に消え去ったように思われた。
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