二年間の研究によって、19世紀末から20世紀はじめの時期における。中国革命派、変法派の日本における活動の大要を把握することができた。また、中国革命派・変法派を援助した日本人の活動についても同様である。中国革命派・変法派や関係日本人に関する資料の残存・保管・展示・公刊等の状況や、関係者遺族の動静、関係史蹟についても概況を知ることができた。 これの調査の成果によれば、中国本土や台湾で既刊の史籍(特に康有為、梁哲超、孫文、黄興、宗教仁、章炳麟等の指導者についての伝説・年譜・史料集)の誤りを訂正し、空白を埋め、あいまいな点を明確にし、正しい叙述をさらに確認し、補強することができる。これらの点については、史料点的根拠を示さずにまとめることは困難でもあるので、逐次、成果を発表して行きたい。 今回の調査では、中国革命派あるいは変法派内部の複雑微妙な関係・中国革命派・変法派と日本・日本人との複雑微妙な関係が特に具体的に判明した。清朝打倒の革命運動をめざす孫文らは、在日華橋の下層民の支持を得、急迫的・民主的要求を掲げて奮闘する。しかし、華きょう社会内部で支持基盤をめぐって競合、対立する変法派に対しては、かえって、変法派の清朝に対する反逆性、伝統道徳からの乖離を口実として非難したのである。一方では自らの運動を監視するはずの清国公使や公使館員とも接触する。 革命運動援助、利用のために接近する日本人も、中国進出・侵略により積極的な政治家、軍人、資本家、民間右翼が多いことは、19世紀中からのことである。しかし、1913年以降においてはとくにこの傾向が顕著となる。しかし、この場合にも孫文らに積極的援助を与えるため奔走したのは宮崎滔天、梅屋庄吉、管野長知ら古い同志であり、梅屋、管野は滔 天よりも積極的であった。今後考えるべきことはなお多い。
|