大乗仏教と仏伝文学との関係は、すでに有力な諸学者によって指摘されているように、「十地」「六波羅密」「授記」等の大乗仏教の主要な思想の多くが仏伝文学に胚胎しているという点から見て、極めて密接なのであるが、更に、大乗的信仰の中核をなすとも言うべき「廻向」の思想が、やはり、本生文学や仏伝文学を経由して展開してきているということに注目すべきであろう。原始仏教以来の伝統として、「自業自得」という業報説の論理の中で救済不可能であった地獄や餓鬼の衆生は、「功徳を向ける」という「廻施」の思想によって救済され得ると見なされるようになる。即ち、福田たる仏や比丘に供物を棒げ、その布施行によって生じた功徳を「苦しんでいる衆生」に向けるならば、それによって、それらの衆生は苦を脱却し得るという信仰は、南伝パーリ聖典の中にすでに見られるが、本生文学や仏伝文学の中で新たな特徴を付加せられて、やがて大乗仏教の「廻向」の思想へと展開する。これによって、「一切衆生の救済」を理念とする大乗仏教の根幹が形成されるのである。 筆者が、本研究課題の遂行によって気づいたことの一つは、仏伝文学の中に流れる大衆性・釈尊の神格化はヒンズー教的信仰や慣習と深い関わりがあるということであり、大乗仏教が世俗的な情格を強めていくと同時に、行為(カルマン)よりも信心(シュラッダー)を救済の要件として重視するようになるプロセスを、仏伝文学の中に辿ることができるのではないかということである。しかし、これについては、もっと多くの仏伝文学を子細に検討する必要があろう。筆者は引き続き、ラリタヴィスタラのサンスクリット原典の校訂及びチベット訳原典の校訂を進め、大乗仏伝たる本経の和訳及び思想史的地位の解明を急ぐつもりである。
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