アリストテレスは、人間の活動を、行為・制作・認識の三種にわけ、芸術活動の本質を「ロゴスをともなった制作できる能力状態」と定義した。トマス・アクィナスは、この定義を註解して、芸術を「理性」でも「能力状態」でも捉えられる解釈を打ちたてたが、どちらか一方に依拠させる立言はくわだてなかつた。20世紀のネオ・トミストたちが悩んだのは、その点だった。ベルクソンの直観を批判することから出発したマリタンは、直観のはたらきを全面的に知性のになうべきものとし、知性に最大限の能力を認めて、芸術の本質もまた直観のはたらき、つまりは知性のうちにあると、断ずるに至った。マリタンは知性をふたつにわける。思弁的な知性と実践的な知性である。前者は認識を獲得するために認識する。それ自体で完結している。後者は行為を遂行するために認識する。知性の外に向かう認識である。この実践的知性の活動はそれが、なされるべき人間の行為に向かうか、作られるべき作品に向かうかによって、さらにふたつに分かたれる。道徳と芸術である。芸術は、それによって、人間の本来そなえている活動能力が道をあやまたず発揮され、人間が完成されるので、知性による「徳」ということができる。しかも、作品にとっての善だけが目ざされる芸術にあっては、意志は知性によって見出される規則に従うにすぎず、主要な部分はほとんど知性が担うのだから、芸術は道徳よりも知的である。ということになる。このときはたらくのが「創造的直観」である。それは、人間そのものとおなじような物質的かつ霊的な作物をも、概念のほかに、生みだそうとする知性の活動である。この理知の創造的な姿が、純粋な力として現れてくるのは、うつくしいものが直観され、作られる物と人間とのあいだに、本性共有の内的交流が生じるときである。これが「詩的直観」である。かくてマリタンの芸術論はひたすら知性において論ぜられるのである。
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