戦後改革期 (占領期) の地域住民組織のあり様を検討する場合には、まず戦前および戦時体制下におけるそれとの継承性の中身が問われる。そこで上田惟一が京都市を事例にとり、昭和17〜8年の事務機構強化の経緯を探るなかで、戦時下の町内会の動向 (一端) を考察した。さて、翼賛体制下にその末端機構に組み入れられた町内会は、政令第15号によって禁止されるのだが、終戦直後にはいわゆる全般的窮乏化と相候って町内会の包括的機能の発揮が官、民の両サイドから期待される。そこで吉原は、GHQ/SCAPのCIEレポートによってその間の東京の町内会の地位を明らかにした (この箇所は翻訳) 。 政令第15号によって町内会が禁止されるまでのプロセスは、日本政府=内務省とGHQの確執によって称余曲折を辿るが、結局のところ、GHQの町内会認識が規定要因として作用した。もっとも、GHQの町内会認識といっても 「降伏以前」 と 「以後」 ではかなり大きな変異がみられる。吉原はこの点に着目して、特に地方精度改革の推移とからませてGHQの町内会認識の特徴とバリエーションの幅を考察した。こうした形での考察は、わが国ではおそらく吉原が初めてであろう、と考えられる。 禁止以降も町内会が各称等を変え実質的に存続したことはこれまでにもしばしば指摘されてきたが、その場合、多くは権力的再編の文脈で捉えるというものであった。しかし、禁止期間における町内会の存立根拠は、同時に 「共同生活」 の文脈にも通脈していた。吉原は、この点を大阪府下の日赤奉仕団の農繁保育所の活動を垣間見る中で明らかにした。 さて全体として、本研究によって占領期における都市町内会の活動の概略とそれぞれが当該時代相においてもつ社会的意味が明らかにされた。
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