今日、さまざまな学問分野で 「知の資本」 概念が多用されている。しかしいまだ統一されたイメージは確定されていない。この概念はおおきく分けて二つの意味で用いられている。ひとつは 「知」 の経済機能に注目したもの (A.シュルツ) 、もうひとつが 「知」 の政治機能に注目したもの (バクーニン以降のアナーキズムの系譜) 。しかし両者は十分な架橋がなされているのではない。 その試みは、しかし、いくつか存在している。たとえばA.グールドナーの仕事、さらにI.セレニーの仕事はその例である。ただし、かれらの試みは十分に成功したとはいいがたい。 ところで最近注目されているネオ・ヴェーバー主義者 (F.パーキン、R.コリンズ、R.マーフィーら) の 「閉鎖理論」 は 「知」 が一方では経済的機能をもちながらも、他方それを可能にする 「知」 の政治機能を重視して、両者の架橋にかなり成功している。しかも、かれらの理論はバクーニンの影響下にあるW.マハイスキーによって先導されているように思われる。 「知」 を 「権力」 と 「収益」 をめぐる 「閉鎖」 のメルクマールと把握することによってバクーニンからネオ・コンサーヴァティヴまでの 「知の資本 (論) 」 の系譜をたどることができるだろう。 以上の研究成果は裏面に記した追手門学院大学文学部紀要 (これは研究成果報告書をかねる) において論じた。
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