本年度は、次の三つの研究を行った。第一は、格式の研究史である。これに関連して、まず格式の編纂の歴史についても言及したが、その際延喜格の編纂、施行についての研究には、不十分な点があることを発見した。弘仁、貞観の両格は、編纂の前年までの格を収めているが、延喜の場合、途中までしか収めていないこと、及び施行年は従来延喜8年とされていたが、実質施行年は延喜10年であることを明らかにすることができた。ついで、江戸時代から昨年に至るまでの研究史をまとめたが、このような整理は従来なされていなかったので、これから研究を始める者や研究者にとっても利用価値のある研究史となった。これらは拙変『弘仁格の復原的研究』民部上篇に収めた。しかし、細部にわたる研究史にはなお江戸時代から明治にかけて研究の余地があり、今後時間をかけて追求する予定。第二は、弘仁民部格の復原に関する研究である。その一つは弘仁格の書写の間に生じた欠落をその他の格から官符と推定したもの。二つ目は三代の格を類聚して類聚三代格とした際の格の分割をしたものを弘仁格抄を利用して復原した。第三は、百済王氏の課役を免除した格が民部格に規定されている理由を解明した。桓武天皇は、生母が百済系の和新笠であり、そのため延暦9年には百済王氏は朕の外戚とまで称するが、桓武天皇の格式編纂事業を継承した嵯峨天皇も百済王氏と関係が深かった。嵯峨天皇は、側近の藤原冬嗣らに格式の編纂を命ずるが、冬嗣は百済王氏の課役免除の格をわざわざ弘仁格に規定し、そのみかえりとして、嵯峨天皇から藤原氏の課役免除の詔が弘仁11年に発せられたのである。そこに、格式編纂が単に法典の編纂ではなく、多分に政治的配慮もなされているのであることは、格式編纂の一側面として興味深い。以上が、研究の実績の概要であるが、昨年度にひき続き政事要略など弘仁格の逸文を収めている史料の調査でも進歩があった。
|