研究課題/領域番号 |
62510185
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研究機関 | 奈良国立文化財研究所 |
研究代表者 |
岩本 次郎 奈良国立文化財研究所, 埋蔵文化財センター, 情報資料室長 (20124232)
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研究分担者 |
木全 敬蔵 奈良国立文化財研究所, 埋蔵文化財センター・研究指導部, 測量研究室長 (30099957)
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キーワード | 平城京 / 条里制 / 山陵 / 国学 / 和歌 / 都城制 / 方格地割 / 尊皇思想 |
研究概要 |
平城京の研究に先駆的役割を果した、北浦定政(1817ー1871)の関係史料のシャシン撮影コマ数は、2013コマに達した。その釈読の結果、従来、通説として語られていることと、若干異にする点や新事実の判明が、次のようにあった。(1)定政が農民の子であると記されることが多いが、実は、伊勢藤堂藩の城和奉行所(現、奈良市古市町)の掛け屋の子として生まれている。掛け屋とは、藩への上納米を管理し、適時にそれを売却し、支出を担当する業で、才識を必要とし、当時の有識階級であった。(2)16歳で同奉行所の銀札会所手代となり、富田泰州や中村良臣らに和歌を、本居内遠に国学を、斎藤拙堂に漢学を学ぶが、主に書面のやり取りに依ったと推定できる。(3)山陵の比定研究を志す動機は、尊皇思想の影響があったと思われるが、その結果を嘉永元年(1848)に『打墨縄』1巻として上梓する。条坊・条理の研究は、奈良町奉行所与力中条良蔵の奨励によることは、『平城宮大内裏跡坪割之図』(嘉永5年)の端書によって知られる。(4)文久2年(1862)の幕府の山陵調査に尽力し、翌年には藩士に列せられ、御陵御用掛を拝命、その後、神武陵地の諮問、志貴・光仁・早良3陵の修復などに功あり、藩主・山陵奉行らから賞賜相次ぎ、慶應2年(1866)には、御陵御用掛に加えて山城大和領地出納監司兼郷里監察役となる。(5)その交友関係は意外に広く、大和・京・大坂・伊勢の国学者・歌人・謹皇志士ら約60人に及び、幕末の文化史的・政治史的側面の一端を明らかにし得る。(6)定政の作図技法における特徴点は、方位を常に北を上に採り、測距には測量車と歩測を用い、坪界交点に○、条里界に△のほか、大鳥居・神社・市街地入口・木戸・橋などに記号を用いており、主題の認識が明確で、主題に無関係なことは省略されていること、などである。(7)上記の研究成果を『北浦定政関係史料集』として刊行すべく、目下、鋭意編集作業を進めつつある。
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