今年度は、昨年度につづく城郭と今年度からはじめた金石文の現地調査を主とした。城郭では667年創設の対馬の金田城と久留米市の高良山の神篭石との表面調査である。金田城は対馬の中心部浅茅湾を防衛する位置にあり、七世紀にはじまる百済・新羅の山城のうち、戦斗用山城であることが明らかになった。しかし、同城一の木戸付近などに残っている石塁の石は、百済王都周辺の石城山城・青馬山城などや新羅王都周辺の明活山城・南山城・西兄山城などの石と比べ、著じるしく大きく、単なる住民の避難所でないことが明らかになった。太宰府市の大野城は文献の上から、これを実証している。高良山の神篭石は、列石の配置が山腹から山頂におよび、百済の包谷式山城に類似している。また筑後平野に面した部分にはかなり高い石塁がみられ、七世紀後半にあらわれる新羅山城の行政的示威と類似している。しかし、通説の、百済木川土城の根石との関連性はそれ程顕著でない。 金石文の研究では、宮城県の多賀城碑、埼玉県の稲荷山古墳出土銑剣銘、栃木県の那須国造碑、群馬県の上毛三碑などを実地見学し、種々の知見をえた。(1)これら五碑がいずれも渡来民関係の碑である。(2)それにも拘わらず、地方行政や個人礼讃などの新羅・百済の碑文に比較すると、系譜記事の多い日本的要素の強いことが知られる。 古代の朝鮮と日本の城郭・金石文を比較すると、いずれも伝来当初から受容地の地域性が顕著で、伝播する文化程度の高低と必ずしも関係がない。むしろ、文化受容地域の要求に従って、受容文化の内容が変容している。それ故、古代東アジア史を中国文化を中心に一元的にとらえようとする従来の研究方法では、史実に即した歴史は成立しない。東アジア、ひいては世界を史実に即して多元的にとらえ、日本や朝鮮の地域文化を尊重する立場で、古代東アジア史を再建する必要があろう。
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