伝統的な国際秩序=冊封体制を構成していた清国を中心とする東アジアの諸民族・諸国家は、19世紀の70年代以降、欧米列強や維新後の明治日本によって次々に冊封体制から切り離され、植民地・半植民地の道を歩むこととなる。本研究においては、宗主国たる清国の知識人(士大夫)たちが、冊封体制の解体にどのように対応し、どのような自己意識及び国際意識を確立していくのかという問題を中心に据えて、洋務派外交を担当した知識人たちの対応策を、現実の外交史的展開との関わりにおいて再検討するとともに、この時期に叢生した新聞・雑誌の対外関係記事・論説を可能な限り収集し分析することによって、清国ジャ-ナリズムの東アジア認識の特徴を解明する手がかりを得た。洋務派外交の担当者たちについて言えば、伝統的な国際秩序=冊封体制の護持という共通の前提に立ちながらも、具体的な外交課題の処理に当たっては、近代的な国際秩序=万国公法体制との整合性を考慮せざるを得ず、一般的には、前者に固執すれば「中華思想」の覚醒を促進し、後者を優先すれば反西欧=アジア連帯論へ接近するという傾向のなかで、従来の冊封体制的な対外認識の枠を越えた中国的「ナショナリズム」の萌芽を形成したといえる。清末のジャ-ナリズムは、絶えず対外的諸事件を報道し論評することによって、外交当局や「民衆」の対外認識を変容させる役割を担い、中国的「ナショナリズム」の形成過程を強力に推進するプロモ-タ-として機能した。たとえば、台湾事件・琉球問題・朝鮮問題をめぐって、清末のジャ-ナリズムは、基本的には、日清提携路線を外交基調に据えていた洋務派外交を支持する立場に立ちながらも、より「ナショナル」な対応を主張して洋務派外交を鋭く批判したし、また越南問題=清仏戦争をめぐっては、「民衆」の動向を詳細に報道し、「民衆」レベルのナショナリズムを覚醒することに全力を傾注した。
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