分析の途上にあるが、土器薄片資料の検鏡結果からみると、道内および東北地方各地で出土した土器に関しては、その含有する鉱物・岩石のうち有色鉱物わけても輝石(単斜・斜方)の多寡が地域差と結びつきそうである。具体的には、道内出土々器ではほぼ半数のものが輝石を大量に含んでいるのに対して東北地方で得られた土器ではわずか1例にしかこれがみられない。また黒雲母も、東北地方では青森鳥海山遺跡例で1点、秋田城例で2点みられるだけなのに対して、北海道では千歳末広遺跡例だけでも6点得られており、製作地推定のための有力な鍵になろう。 以上のことならびに考古学的データを総合すると、北海道における擦文期の遺跡出土土器のうち、深鉢形のものはほとんどすべて道内、しかも当の遺跡付近で続作されたと考えられる。一方、坏は従来土師器と確認されたいたものの中にも道内製作の可能性が強い例と、道外、おそらく東北地方北部でつくらたと思われる例がある。比率の上では後者の方がやや多い。 このことは、擦文文化成立期に東北地方の蝦夷集団が深く関与した事情を示すのであろう。さらに、深鉢形土器が一般に日常の什器と考えられるのに対して、坏は儀器的性格をもつ点からみて、坏の搬入は饗食などを介した交易・服殿関係が北海道と東北地の間でもたれたことを物語るのであろう。
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