我々はまず18世紀イギリスの自然風庭園に潜むウィッグ党的保守主義の審美観を検討した。そこでJames ThomsonのSeasonsをとりあげ、叙景詩と規定されているこの詩は実は自然を叙景したものではなく、自然をメッセージを隠す隠喩として使用していたことを明らかにし、かつThomsonの描く風景は現状維持という政治性を風景のレベルで捉えていることも、明らかにした。このThomsonの態度はイギリスにおける最後の庭狂いの結果である自然風庭園に結びつく。この種の庭はウィッグ党よりの中産ブロジュアの最も好んだ様式であった。この庭では逍遙と瞑想を原理として、様々な意匠が展開される。だがそれはウィッガリイにおける慈愛の変形であることが、今回はじめて明らかになった。それだけではない。庭の中の廃墟を中心とする恐怖感などは心理の内奥の拡大と収縮現象を孕み、いわば世紀末現象の先取りであったことも明らかとなった。この時点で我々は19世紀も考察の対象にすることにした。すなわち自然風庭園をめぐる審美的政治的状況はヴィクトリア朝における温室効果現象に受けつがれたからである。植物を人間の目の行き届く範囲の中に閉じこめて、生をいつくしむという行為と、それを可能にするテクノロジイの進歩との相関の中に、広場と家、ハイウェイと路地、飛行機と飛行船といったセーシスとアンティ・セーシスの葛藤による新たな文明の創造原理が横たわっていたのである。そこで我々の次の研究は19・20世紀を中心とした、文明のシフト現象になるはずである。
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