この研究の目的は、日本法を西洋法とは異質なものとする通説の基礎すなわち西洋法治主義対極東徳治主義という対立図式を再検討することにあった。終始この目的に基本的変更はなかったが、研究遂行の過程において微妙な軌道修正や強調の転換を加えなければならなかった。第1の転換は、極東徳治主義の実態の解明に重点を移したことである。中国の古代思想における儒家と法家との対立にもかかわらず、それは排他的なものではなく、法と道徳の未分化が認められること、内法外儒的官吏が意外に多いこと、そして同様の現象は律令時代のわが国においても認められること等が明かとなった。その原因を探究する過程で、わが国における法学教育事始めを検討する必要が生じた。これが第2の転換であった。わが国でも中国でも大学が早くから法学教育を放棄して、遂に官吏養成の機関になりえなかったことこそ、最も重大な意味をもつものと判明した。実際わが国の場合には、律令国家の崩壊と共に数世紀に及ぶ法学教育の大空白期を惹起し、東西法文化を分かつ決定的原因になったと考えられているからである。このことと関連して、西洋的な大学制度が実質的な社会に移入される場合に起こりうる諸問題を検討した。そのために帝政ロシア最初の大学として創設されたモスクワ大学を素材にしたが、これによって古代近代のわが国における大学制度の移入に際して起こった状況に酷似する驚くべき諸事実を発見した。継受法の定着と運用の要員を養成すべき法学教育の前には、種々の障害が横たわっているという事実もまた予想以上の驚きであった。おらそく法や裁判制度と文明の関係は創造以上に複雑かつ多様であると考えられる。この関係の究明をも求めて、目下一方では方法論にまで遡り(マクロの比較)、他方では裁判制度、訴訟と調停の制度的発展と利用度、法源とその適用等の諸問題に随時立ち入ることによって、この研究の早期完成を目指している。
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