研究概要 |
秋田県庁文書(主に明治30年代まで)の採訪を中心に, 湯沢市O家, 同市立図書館, 国立史料館に分散所蔵されているO家文書の採訪・整理ならびに, それらの『目録』作成にむけて, カード化に努めた. 又山形県新庄市に移管された農水省農業総合研究所旧積雪支所所蔵資料の点検や聴取, さらに近代史研究の実績をもつ秋田近代史研究会のメンバーとともに県内平鹿郡平鹿町立図書館所蔵の旧醍醐村役場史料の採訪にも加わり県南地方の地主制展開の条件解明にも努めた. 年度末に「O家文書目録」作成につとめ刊行することができ, 改めて本格的な分析とさらに, 県南雄勝郡西馬音内町S家の採訪実現に努めたい. 現在までに史料の検討や若干の分析を通じて判明したことは, O家が明和〜天明期(18世紀後半), 湯沢町を中心に広く県南地方での生活用品の売買を通じて「小商人」として成長してゆき, 一方で川原毛の硫黄山経営, 他方では佐竹南家への調達金(献金か)ならびに土地集中の結果, 半穀ないしは古手類の土崎湊を媒介(=経由)しての売買へと次第にその(地主)経営の基盤を拡大し, 明治期における大地主として展開する条件をととのえていったものと想定してよいであろう. さらに課題としては, 幕末維新期の久保田(秋田)藩の殖産興業政策, 即ち蚕糸業を始め漆器業などといかに関連していたかが残るのであるが, 質屋業ないしは酒造業への関与は考えられるが, 県下の一大中心地を形成した湯沢町での蚕糸業への関連を証明する史料は乏しいのが, 現時点迄の実状である. 県南地方に蟠踞する大地主群の相違はさておき, 土地集中を媒介とした金融業いいては地方銀行への出資・経営参加のメカニズムの理論的・実証的解明は依然として至要な今後の課題となっている.
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