研究概要 |
旧満洲における技術員・技能工養成は鉱工業技能者養成令(1941年)によってであるが, その実行を担ったのは満洲鉱工技術員協会法(勅令第3号)による特殊法人満洲鉱工技術員協会と, これと一体になって活動した財団法人日満鉱工技術員協会であった. 1937年, 満洲産業5カ年計画がスタートした直後, 7月に日中戦争(支那事変)が勃発した. 日本では陸運省の手で重要産業5カ年計画が策定されていたが, これを母体に企画院は日満を通じての生産力拡充4カ年計画を策定した. これにともない満洲産業開発5カ年計画は著しくその本質を変えざるをえなかった. 当時満洲では産業開発の基礎要件たる技術院・技能工の否定は甚しく, その対策が焦眉の課題であった. そして, 37年10月, はやくも満洲で活躍する「万能熟練工たるべき技術員」を高小卒3カ年で養成する目的で日満技術工養成所設立案が提示されている. 当初候補地として東京市蒲田があげられていたが, 実際には財団法人日満技術工養成所の名称で38年4月秋田市におかれた. 翌39年直方市に九州日満鉱業技術員養成所, 40年に酒田市に酒田日満技術工養成所を新設し, 立命館日満高等工科学校に技術者の委託養成を実施することになり, 法人名を日満鉱工技術員協会と改めた. 他方, 満洲においては「優良ナル日満人助技術員」の獲得と配給のための国家代行機関として, 37年末, 社団法人満洲鉱工技術協会が設立された(前述のように41年から勅令による特殊法人). 同協会の組織は, 庶務, 経理, 業務, 養成, 登録の5課と監察役, および奉天支部から構成され, 安東, 哈爾賓, 奉天の3つの技術工養成所と大練工業学校付属技術員養成所(委託養成)を経営するとともに50社以上にのぼる各企業内の養成所の監督, ならびに技術員, 技能工の登録業務を行なった.
|