制度的整理され、これまでに、その概略についても考究されている明代の里甲の組織を基礎において、作業をはじめた。里甲制下の華北においては、里は社、もしくは図と表現されることが多かったが、県がいくつかの郷によって、郷がいくつかの社によって構成され、社は単数または複数の村によって成立することを常とした。社が単村の場合には、里の名称には社名がとられ、連村の場合には数序詞で呼ばれていたようである。一方、里は一定の戸数によって編成されることを原則としたから、ときには一村が複数の里に分割されることもあった。里の構成村名をたどることによって、このことは明らかであるが、自然村落の分割によって勧農や自衛という古くからの村落の共同性や自治性の失われることを避けるために、村以下の庄・屯などの小集落を単位として、里甲の編成はすすめられてたようである。 宋代の都保制や元代の社制は、当然明代の地方組織にも影を落とした。華北の社はそれであったが、華中・華南の都・保・隅などもそれである。そして、それらは地域によって咨意に用いられた。ただ、これらは字を異にするので弁別にとまどうこともないが、唐以前の里制の呼称が残存している場合には、里甲制下の呼称との区別に、特段の留意をしなければならない。同様のことは、清代になるといっそう複雑になる。 こうして、例えば華南の福建恵安県についていえば、明代には城内の3坊のほか、城外の34の都は、4郷にまとめられた18の里によって構成されていたこと、各都には979村が分属していたこと、28728の総人口を有していたことなどを、地方組織のそれぞれの名称とともに知り得た。 次年度においては、調査範囲をできるだけ全中国に拡げ、かつ一覧表化する工夫を試みたいと考えている。
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